» <第2章>vol.9 ある利用者さん

拒食していた利用者

 

 

毎朝の申し送りの時に、受け持ちでない90歳の男性利用者が拒食していることが報告

され気になっていた。その利用者の主な診断は脳出血後遺症と認知症であった。

経過の概略はもともと少食であったところ風邪をひいて薬が投与されたのを契機に

食事を殆ど摂らなくなった。今まで服用していたすべての薬を拒否し、言葉も

発しなくなった。娘さんは何とか食べさせたいと利用者が好きなうどんを食べに

外出したが、うどんを一本食べたのみであったと聞いていた。介護士、看護師、

栄養士等がいろいろ工夫してやってくれているようであったが、いつもベッドで

目をつぶり問いかけにも反応しないとのことであった。担当医は血液検査等で

特に異常を認めなかったので、食べられない時は点滴を試みたが直ぐに利用者本人

が針を抜いてしまうのでお手上げの状態であった。

 

少しは水分を取っているようであったが、そのうちに食欲が出るだろうと期待し

経過をみているうちに何日も経ってしまった。その間に病院に紹介受診したが、

検査結果は異常なく老衰と考えられたようであった。消化器系の検査は腹痛などの

症状はなく、家族も希望しなかったので行われなかった。

 

担当医が三日ほど不在で、受け持ち以外のフロアーにも何か問題ないか行ってみた。

ベテランの看護師があの利用者がもう二日間も食事が口に入っていないと困惑して

いた。食事をほとんどとらなくなって10日間以上経過していた。看護師にいろいろ

と経過や現状を聞いているうちに診察をしなければならない気持ちになった。

 

部屋に入ると唇をカサカサにして、横たわっている姿は老衰を思わせた。

「○○さん、○○さん」と小さな声で呼んで、指で肩を軽くたたいた。

 目を少し開け、驚いているようであった。「私を見たことある」と聞くと

うなずいた。「僕の名前は○○と言いますが診察させてください」と話した。

ゆっくりうなずいてくれた。身体全体を入念に診察したが異常所見はなかった。

診察が終わってから再び話しかけた。

「○○さん、食べようと思ってもどうしても食べられないのだね。皆さんが

いろいろやってくれて、何とか食べようとするのだけれど食べられないのだね。

娘さんも一生懸命だ。みんなの為にもなんとかと思うが、でも食べられない・・

つらいよなー」といったら、突然おいおい泣かれて私の手を握りなかなか

泣き止まない。何にも云わないので「○○さんの状態が良く解らないのでなんでも

いいから話してくれる」。また手をにぎって涙がボロボロ出ている。 

「お腹はいたくないの」首を振る。「吐き気は」、首を振る、 

そのうちに「胸が」と聞き取れないほどの声で言って胸をさする、

「胸が焼けるような感じなのかな」うなずいている。

「そうすると胃液が口のほうに来るように感じることもあるの」。大きくうなずく。

「そうなると胸がもっと焼けるのだ」と言うと再度うなずいた。 

「そうか、少し病気が解ってきたよ」、 

「薬をあげるけど大事な薬なので飲んでくれる」うなずいて再び私の手を

にぎり涙する 「身体の水が足りない状態だから点滴したいのだけど針を抜かない

と約束してくれる」。大きくうなずいてくれた。

逆流性食道炎の疑いで処方し、夜は弱い安定剤を処方した。

翌朝、点滴しているベッドサイドに行き「どうですか」とたずねると胸が少し楽に

なった感じがすると、食べられそうだと言われたが結局その日は食べられなかった。

「点滴しているから無理して食べなくていいですよ。自然に食欲出てくると思う。」

と話した。翌日はまだ朝食時に全員が揃っていなかったがテーブルの位置に車椅子で

座っている。少し調子よいのかなと思い隣に座って「どうですか」と聞く、

「だいぶ楽」と言われ、そしてヨーグルトを自らスプ-ンでゆっくりとすくい、

それを食べて「おいしい」と言われた。よい顔をしている。

よし、いいぞ と思う。

 

その後は順調に回復し、以前より食欲もあり元気になったと聞いていた。

担当のフロアーではないが時々行くことがある。離れたところで笑みを浮かべ手を

振ってくれている利用者に気が付いた。あの○○さんであった。

 

 

 

 

 

 

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